いつも、不安だった。
戦いの中に生きる人――それを見守ることしかできない自分が、歯痒かった。
でも、不安は悲しみしか呼ばないのだと、私は知った。
だから、私は信じることにした。
ただ一人、私が、好きになった人を――。
真紅の不死鳥の帰還を待ちわびていた私の心臓は、早く激しく高鳴っていた。
会えなかったのはほんの数日のことだというのに、まるで果てしない年月を待っていたような気がした。それほどに彼の失踪は、私――いえ、私たちグレン小隊にとってショックな出来事だった。
すでに死んでしまったのではないかというのが一般的な見解だったけれど、私たちはそれを信じたくなかった。一緒に戦ってきて、いつも私たちを不安にさせながらも最後には温かく笑ってくれる――そんな彼をずっと見てきたから。
だから最後の最後まで、生きていると信じていた。
彼がヴァリムに捕まっていると知った時の気持ちは忘れない――喜びと不安とが、ひとつになった気持ち。
必ず助けようと誓った時の、みんなの顔も忘れない――決意に満ちた、瞳の輝き。
そして、その思いを信じて戦った結果、彼は再び戻ってきた。
そう。私たちの元に――。
「……みんな、すまない。いろいろと心配をかけさせてしまったようだな……」
鉄の輝きと油の臭いに満ちたドックの中で、彼はそう言った。
言葉の割に全然すまなそうに聞こえないのは、同じセリフを言い慣れてしまった証拠だと思う。私もこれまでに、何回聞いたかわからない。
本当に反省しているの?って、突っ込みたくもなってしまう。それが彼という人間――ちまたでは朴念仁というらしい――だからしょうがないけど、やっぱり腹立たしい。
「まったくだぜ……ま、隊長のことだから死んじゃいねぇとは思ってたが、みんなマジで心配したんだからな?」
キースが彼の傍らに立って、その頭を小突いている。
上官に対する態度としては問題かもしれない。
でも、そうではない。キースは純粋に戦友が帰ってきたことが、嬉しいんだと思う。
「……でも、ほんと良かった……隊長が無事で。あたし、隊長を見つけた時……すごく嬉しかったんだけど、怖かったりもしたんだ……夢を、見ているんじゃないかって……」
普段は笑顔を絶やさないアイリも、今は涙目になっている。
彼女の気持ちはすごくわかる。だって私も、まだ現実だとは思えないから。
彼はそんなアイリを見て、やっぱりいつもの微笑みを浮かべているだけだ。
本当に鈍いと思う。人の気も知らないで――。
で、肝心の私は、というと。
「フェンナ、どうしたの?」
アイリが不思議そうな表情で、私のほうを見ていた。
彼女がそう思ったのも無理はない。私ときたら、なにを言うわけでもなく、ただ静かに彼の顔を見つめていただけだったのだから。
会う前までは山のように文句を言うつもりでいたし、ほっぺたのひとつでも叩いてやろうかと思ってたんだけど――。
無事な顔を見た途端、熱い思いが込み上げてきて、なにもかもきれいさっぱり忘れてしまった。
結局、出てきた言葉は、たったひとつ――。
「――お帰りなさい。グレンリーダー……」
でも、私にとっては、その一言がすべてだった。
「え!? 双子の悪魔が……隊長を助けたって言うの!?」
突然にアイリが、驚いたような声をあげた。
手にしたカップの中身が、波を立てているのが見える。彼女のあまりの声量に、私もうっかりカップを落としそうになった。
帰りの輸送機のレストルームでのことだ。仲間だけの些細な休息の中で、彼は戦いが終わってからのことを、話してくれた。
雪原で、双子の悪魔と呼ばれる人たちに助けられたこと。
ミレンシェン基地での、耳を覆いたくなるような暴行のこと。
そして、双子がそんな彼を逃がしてくれたこと――。
「……信じらんねぇなぁ。だってあいつら、隊長をメチャクチャ敵視してただろ?」
キースも、耳を疑っているようだった。
確かに敵である兵士が彼を逃がしたのは、不思議なことだと思う。
でも、この二人がそこまで驚くってことは、私が考えている以上に意外なことだったのだろう。
つまりは、双子が彼を解放したということが。
「そうよ。大体そんなことしても、あの二人には、なんの得もないじゃない?」
同意を求めるかのようなアイリの言葉。
彼――グレンリーダーは、なにかを考えるように手を組んだまま、小さく頷くだけだ。
「俺に、ユイの考えはわからないさ……ただ、事実として、そういうことがあっただけだ」
静かに放たれた言葉には、どこか苛立たしげな感情がこもっているように聞こえた。
私は、ふと思った。もしかすると彼はその理由を知っていても、納得できていないのではないだろうかと。
「フ〜ン……ま、あの二人にも、なんか理由があったのかもな」
壁にもたれながら、コーヒーを飲み干すキース。
無関心なその様は、考えてもわからないことに頭を使う必要はないといった感じだ。
「まぁ、私も隊長が無事なら、それでいいんだけどね……」
アイリもつぶやくように言うと、カップに目を落とした。
わずかに波立っていた黒い水面も、今は落ち着きを取り戻したようだ。
私も、深く考えることはなしにしようと思った。
理由はともかく、彼が無事に戻ってきたという事実――それが、すべてだったから。
でも、気になることがないわけでもなかった。
彼が何気なく言った言葉――その中にあった、ユイという名前。
双子のうち、一人の名前だけを挙げたという事実――。
彼がその一瞬だけ見せた、わずかな愁いを帯びた顔――。
そこに、どんな意味があったのか――私は、女として気になっていた。
アルサレアに戻った私を待っていたのは、ぎっしりと詰まった公務のスケジュールだった。
戦災各地へ飛んでの激励と視察。それがない時には、重要書類の確認と承認。
本来の仕事を放棄して彼の救出作戦に加わったのだから、しょうがないとは言っても、もう少し手加減して欲しいと思う。
山のように積まれた書類に目を通してキーボードを叩きながら、私は小さくため息を漏らした。
「……フェンナ様、よろしいかな?」
ノックの音と共に、低い声がドアの向こうから聞こえてきた。
特徴のあるハスキーボイス――アルサレア軍参謀本部長のツェレンコフおじさまだ。
かつてのお父さんの友人であり、私にとっては数少ない理解者の一人だ。
「……どうぞ」
私は、疲れを隠した声で言った。
遅れてドアが開き、白い髪と髭を持った長身の男性が入ってくる。
最近は公務のせいでなかなかお会いできなかったが、おじさまは相変わらずのようだ。
六十歳を越えた今でも動きに衰えは見られず、温和な表情の中に秘めた鋭い眼光も健在だった。
お父さんもそうだったけど、これが生粋の軍人の凄さなのかなと思う。
「おや、だいぶ苦戦しておられるようですな。どうやら、お邪魔をしてしまったかな?」
「いえ、ちょうど一休みしようと思っていたところですから」
私はゆっくりと立ち上がると、部屋の片隅にあるコーヒーメーカーのほうに歩いていった。
本来なら首相自らがコーヒーを淹れることはしないはずだけど、ちょっとした気晴らしにはいいと思って、私は自分で淹れるようにしている。
豆の挽きかたからお湯の温度まで、最近は我ながらちょっと凝っていたりもする。
「……ああ、フェンナ様。そのようなお気遣いは無用ですぞ」
「そうおっしゃらずに。今日のは結構、うまくいったと思ってるんですよ」
湯気の立ち昇る液体を温めたカップに移すと、香ばしい香りが辺りに広がった。
人によるとは思うけれど、私にとっては心が落ち着く瞬間だ。
来客用のソファに腰掛けるように勧め、私は淹れたてのコーヒーをおじさまの前に差し出した。
「いや、申し訳ない。フェンナ様に茶を淹れてもらえるなど、この老骨には過ぎたもてなしですな……ウム、うまい」
目を細めながら笑みをこぼすおじさまを見ていると、お父さんのことを思い出す。
やっぱり付き合いが長かっただけあって、二人はどこか似た雰囲気を持っていると思う。
「本来ならわしのような人間など、死んで然るべきなのですが……どういうわけか、こうして生き残ってしまった……世の中というのは皮肉なものですな」
視線を窓の外に向け、おじさまは、どこか自嘲気味につぶやいた。
アルサレア戦役――その最中に殺されてしまったクレア姉さん。おじさまは、姉さんを救えなかったことを今も悔やんでいるようだ。
「……おじさま。生き残ることは、決して恥ではありません。たとえ、どんな形であっても、生きていれば希望が見える……それに、大切な人を悲しませなくて済むんですから」
私は対面に座っておじさまの瞳を見つめた。
自分でも不思議なほど、すんなりと言葉が出たと思う。
「強くなられましたな……今のフェンナ様を御覧になれば、グレン将軍もクレア様もきっと、そうおっしゃられることでしょう」
「そんなことは、ありません……私だって一人では、なにも出来ないんですから。おじさまや、他の方々がいてくれなければ、こうして、ここにはいられません」
「フフフ……わしというよりは、どちらかと言うとあの男……ではないですかな?」
意地悪そうなおじさまの言葉に、私は思わず頬が熱くなっていくのを感じていた。
人をからかうのが好きなところも、変わっていないみたいだ。
彼――グレンリーダーが今の私にとってかけがえのない存在であることは誰もが認める事実だったけど、改めて言われると、なんだか恥ずかしい。
「……と、ところで、おじさま。用件はなんですか?」
私は軽く咳払いすると、無理矢理に話題を変えた。自分でもひどく間抜けだと思った。
ひとしきり笑ったあと、おじさまはカップをテーブルの上に置く。
「おお、そうそう……うっかり忘れるところでした。実は、他でもないあの男――グレンリーダーのことなのですがな……」
「? 彼が、なにか……?」
どこか重い口調になったおじさまを見て、私は思わず身構えてしまう。
また、なにか良くないことでもあったのだろうかと思ってしまうのは、これまでのクセというか、習性だろう。なにしろ彼のことで良いニュースを聞いた例は、あまりないからだ。
そんな私の様子を察したのか、おじさまは少し顔を緩めた。
そして続けられた言葉は、私の心配が杞憂であったことを示すと同時に――異なる衝撃に満ちたものでもあった。
「――アルサレア軍参謀本部は、この度、満場一致で……彼をアルサレア軍元帥に任命することを、決定致しました」
恐らく私の目は、ビー玉のように丸くなっていたに違いない。
思考も身体の動きも、見事に一時停止――それほど、びっくりしていた。
おじさまは、不思議そうに私を見つめる。
「はて? それほど、意外でしたかな?」
「い、いえ……そういうわけじゃ……ただ、あまりにも突然過ぎて……」
私は呆然と言葉を紡いでいた。
アルサレア軍の元帥。
それは、この国の最高権力者を意味する言葉とも言える。
そう――以前のお父さんと同じ立場。そして、グレンリーダーがその元帥に昇進する。
理解はできても、あまりに話が急だったせいか自分でもどう反応していいかわからなかった。
おじさまは私が落ち着くのを待って、話を続けた。
「まぁ、確かに突然のことで、驚かれたかもしれませんな……いや、戦争は終結したものの、アルサレアはいまだ不安定な状態です。フェンナ様が首相になられたとはいえ、それはあくまでも政治面の安定が図れただけのこと。軍については最高責任者不在の状態が、いまだに続いているのです。つまり、早急に新たな指導者を決める必要があった」
「それで、グレンリーダー……というわけですか?」
「その通りです。ただ、かつてのグレン将軍のように、一人の指導者に全権を委ねることは、ある意味で危険でもある……つまり、体制そのものとしては、今まで通りにフェンナ様や我々でフォローしていく形になるわけですが……」
「つまり、国家の象徴としての存在が必要だということですね……」
「簡単に言ってしまえば、そういうことです……今やグレンリーダーは、かつてのグレン将軍以上に国民から英雄視されている。国家のカリスマとしては、フェンナ様よりも向いているということなのです」
コーヒーのせいでなく苦い顔をしたおじさまを見て、私は納得したように頷いた。
おじさまとしては、私がないがしろにされているようで面白くないのだろうけど、私は当然のことだと思っている。
ヴァリムの黒夜叉を倒し、アルサレアを勝利に導いた軍神――それが今のグレンリーダーという人間に与えられた評価であり、戦いの最中に生きる人々にとっては希望の光に見えたはずだ。
グレン将軍の後継者という意味では、私よりも彼のほうがあきらかにふさわしいと思う。
もっとも、私としてはそんなことは気にもならない。
ただ、彼の出世が嬉しく――同時に別の不安を呼び起こしてもいた。
そう――お父さんと同じ運命を、彼が辿ってしまうのではないかという不安が――。
黙り込んだ私を訝しむように見つめ、おじさまは言った。
「……はて? どうか、なさいましたかな?」
「い、いえ……なんでもありません……それで、就任はいつ?」
私は、内心の不安を押し隠して微笑んだ。
我ながら余計な心配ばかりしてしまうのは、彼のことだからだろうかと思う。惚れた弱みと言ってしまえば、それまでなのだろうけど。
「辞令は、明日の朝ですな……明後日には就任式典。さらにその三日後には、ミラムーンのクレスト大統領との会談を予定しております」
「そうですか……彼も、忙しくなりますね」
私は、ふっと息をついた。
元帥就任で危険な前線に行くことが少なくなるとはいえ、それとはまた違った戦いを強いられるのかと思うと、自然と同情的な言葉が出る。
おじさまはゆっくり窓際に歩み寄ると、果てしない空を見つめた。
「……これからのアルサレアを背負って立つのは、若い力です。あの男とフェンナ様――お二人には、頑張っていただかなくてはなりませぬ」
厳しいように思えて、その口調にはどこか温かみがあった。おじさまの思いが伝わってくるような感じだ。
そう――大変なのはこれからかもしれない。
お父さんやおじさまの築いてきた世界を引き継いで、より良いものにしていくこと。それが私たちの戦いであり、すべては始まったばかりといえるのだから。
そんなことを思っていると、おじさまはふと気がついたように付け加えた。
「まぁ、これで、お二人が一緒になってくだされば、この老骨も安心なのですがな」
「……な……! お、おじさま……!」
いたずらっぽく笑ったおじさまから目をそらし、私は思わず赤面した。
「――元帥?」
その後、公務を終えた私は彼――グレンリーダーのいる将軍執務室を訪れた。
彼はどこか疲れた顔をしていた。パイロットだけをやっていればよかった以前と違い、いろいろと面倒な仕事を押し付けられているようだ。
お父さんの影武者をしていた時も作戦の承認程度しかやったことがないと言っていたくらいだから、精神的に疲れもするだろう。
今の立場すら慣れていないのに、明日には更なる重責を押しつけられることになるのだから、出世というのも良いことばかりではないと思う。
「ええ。正式な辞令は明日という話ですけど、ツェレンコフ参謀本部長が、そう言ってました」
「……そうか」
彼の言葉は、どこか他人事めいた感じだ。
疲れのせいだけではなく、心をどこかに置き忘れたかのような――そんな印象を受けた。
「……嬉しく、ないんですか?」
私は思わず訊き返したが、それに対して返された言葉は、極めて否定的なものだった。
「……俺は、最高責任者なんて柄じゃない。自分の立場ゆえに部下を死地に追いやるような真似は、もうごめんだからな」
アルサレア戦役の最終決戦において、彼はアイリとキースを前線へ送り出し――正確には、アイリたちが彼の制止を振り切って進軍したのだけど――二人を危うく死なせるところだった。その時のことを思い出しているのだろう。
それ自体は理解できた。見ているほうとしては冷や冷やするけれど、彼は人を危険な戦場に追いやるくらいなら、自分から飛び込んでいくタイプの人間だから。
けれど、次の言葉を聞いた時、私は思わず愕然としてしまった。
「――それに、俺はかつてグレン将軍を守れなかった……クレア様だって、救えなかったんだ……」
心臓が、大きく揺れ動くのを感じた。
「……守るべき人間も、救うべき人間も、部下でさえも死地に追いやってしまう――そんな人間が国の指導者になるなんて、皮肉を通り越した笑い話だろう……」
――パァ……ン――。
乾いた音が、室内に響いた。
思わず動いた手――私は無意識のうちに、彼の頬を張り飛ばしていたのだ。
彼の目も、大きく見開かれている。こんなことは今までで一度もないことだった。
「……どうして……どうして、そんなことを言うんですか!?」
「……フェンナ……」
「それは、お父さんや姉さんのことはショックだった……でも、それがあなたのせいじゃないことくらい、誰だってわかってる!……私は……!」
声が自分でも震えているのがわかった。
でも、彼の目を揺るぎなく見つめて、私は叫んでいた。
「……私は、あなたを信じているのに! どうして……そんなことを言うんですか……!」
あまりにも情けなかった。
今までの彼だったら昔を振り返って後悔することはなかったはずだ。まして、こんな自虐的な態度を取ることもなかったというのに――。
「……すまない。フェンナ……少し、どうかしていたようだ……」
でも、その言葉とは裏腹に、彼の表情は暗かった。
心なしかその瞳には、言いようのない悲しみが潜んでいるように見える。
「……だが、俺は本当に不甲斐ない男だ。アルサレアの軍神なんて言われるほど、強い男じゃない……自分の立てた誓いを果たすことでさえ、死に物狂いなんだ……」
「……誓い……?」
私は、思わず問い返していた。
誓い――それは、彼の口から初めて聞いた言葉だ。そして、重苦しいまでの陰を持っている言葉だった。
恐らくは無意識に出たのだろう。彼はハッと気がついたように目をそらした。
「……俺の個人的な問題だ。気にしなくていい……今は、一人にしてくれ……」
そのまま彼は、窓のほうへと向き直る。
夕暮れの陽光が指し込む部屋に、長い影が伸びた。
彼の背中は、さながら壁のようになって、それ以上の追及を拒んでいるかのように見えた。
私は震える思いを抱えながら、部屋をあとにするしかなかった。
それから、二日が経過した。
彼――グレンリーダーの個人的な感情はともかく、元帥への就任というのはもはや決定事項であり、辞退することはできなかった。
参謀本部からの辞令、そして就任式典はつつがなく行われ、彼は晴れてアルサレアの最高責任者となった。
兵士たちは高揚し、人々は歓声をあげて新しい指導者を迎えた。
誰もが、新生アルサレアに希望を持っているかのように見えた。
でも、熱狂の最中、彼の顔に浮かんでいたのは、どこか作り物めいた微笑みだった――。
「え? 隊長が、おかしい?」
就任式典後のパーティーの席で、私はアイリに自分の疑問をぶつけた。
彼女とは彼を巡ってのライバルであるけれども、同時に一番、相談を持ちかけやすい人間でもあったからだ。
「うん……話しかけても、時々上の空みたいなところがあるし……それに、なんかすごく……悲しそうな目をしているのよね……」
グラスに入った葡萄色の液体――と言っても私たちは未成年なのだから、お酒ではなくジュースなのだけど――を、軽く流し込みながら、アイリは壁にもたれかかった。
誰もが少なからず着飾っているこの席においても、彼女はラフな格好だった。
なんでも動きにくい服は嫌いだそうだ。彼女らしいといえば、彼女らしい。
「う〜ん、確かにそう言われると、そう見えるかなぁ……」
「……でしょう? アイリは、なにか思い当たる節はない?」
「……全然。だってここ数日は、ほとんど顔を合わせることなかったもの……どっちかっていうと、フェンナのほうが一緒にいる時間が長かったんじゃない?」
「そ、それはそうなんだけど……」
聞き方を変えれば意地悪な言葉だったけど、彼女のほうに、そんなつもりはまったくない。
純粋に考えても、確かに一兵士である彼女よりは国の中枢にいる私のほうが、今の彼と話す機会は多かった。
口ごもった私を見て、アイリは柔らかく微笑んだ。
「まったく、フェンナも苦労性よねぇ……そんなに考え込んでばっかだと、老け込んじゃうよ?」
「えっ?」
「そりゃあ、隊長のことは、あたしもよくわかんないこと多いよ……っていうか、わかんないことだらけかな。だって隊長って悩み事とか絶対、人に言わないもんね」
私は思わず頷いていた。確かに、彼はなんでも自分で抱え込んでしまうところがある。
見ているこっちとしては腹立たしくなるけれど、それが彼の性分なのだから仕方がない。他人に気を遣われるのが嫌いなのかもしれなかった。
空になったグラスをもてあそんだアイリはガラス越しに漏れる輝きを見つめながら、なにか思いを馳せるように続けた。
「……でもさ、ずっとグレン小隊で見てきて、あたし思ったんだ……隊長って、確かにそういうところあるけど、結局それは全部、人のために苦しんでいるんだよね……自分のためじゃなくて」
そう言ったアイリの瞳には、穏やかながらも強い光が覗いていた。
「だから、どんな理由があったとしても、あたしは隊長のことを信じてるし……そんな隊長の力に、できるだけなりたいと思う。事情を話してくれないのは、確かに気になるところだけど……それであたしたちが悩んでも、どうしようもないしね」
「……アイリは、強いのね……」
私は力なくつぶやいた。そう言われると、私は彼女ほど彼のことを信じていないのかなとも思う。
アイリは、苦笑気味に笑う。
「……強くなんかないよ。ただ、割り切っただけなんだから……そうでなくちゃ、隊長と付き合ってなんかいられないよ。むしろ、あたしはフェンナのほうがよっぽど強いと思う」
「そんなこと、ないよ……」
自信なさげにつぶやいた私の背中を、アイリの手が強く叩いた。
思わず、息が止まる。
「なぁに言ってんだか! モニターの向こうでずっと見守ってきたフェンナが、隊長を信じ切れないわけないじゃない!」
あっけらかんとしたような彼女の言葉は、不思議と温かかった。
気を遣うという感じではなく、事実の中に励ましを含んだような感覚だった。
「いつまでもそんな弱気なこと言ってるんだったら、本気で隊長、奪っちゃうからね!」
「な……そ、そんなこと、絶対ダメなんだから!!」
そして、続けられた発言に私は思わず叫び――自分でも意外なほどの声の大きさに、慌てて口をつぐんだ。
「アハッ……やっと、フェンナらしくなったかな。そうでなくちゃライバル宣言した意味がないもんね」
アイリは軽くウインクする。
わずかに呆然としたあと、私は思わず吹き出してしまった。
互いに顔を見合わせて、笑い合う。
そう――同じ思いを抱いているのは、私だけではない。よく考えてみれば彼のことについて悩んだのは、これが初めてでもなんでもないのだ。
得体のしれない不安――それを消すことのできるものは、たったひとつの信頼だけ。
それはある意味で盲信かもしれなかったが、それでも構わないと思う。
アイリの言うように、私にできることは彼を信じることだけだったのだから。
なら、私は迷いを捨てよう。
たとえ、すべての人間が彼を疑ったとしても、私は最後まで彼を信じていく。
その思いが、いつか彼の心に届くことを信じて――。
式典から二日後の夜――私と彼はミラムーンに向かう大型輸送機の中にいた。クレスト大統領との会談を行うためだ。
周囲にはPFの二個小隊を乗せた軍用輸送機が三機、トライアングルを描くような陣形で護衛に就いている。以前、お父さんを護衛していた部隊は三個小隊のみという話だったから、単純に計算すれば、二倍の護衛がいるという計算だ。ツェレンコフおじさまも、だいぶ気を遣っているらしい。
もっとも、私と彼――国家の最重要人物が二人も乗っているとなれば、警戒し過ぎるということもないのだろう。
私の隣に座る彼――今はアルサレアの元帥となったグレンリーダーは、どこか厳しい顔で窓の外を見つめている。まるで、これから戦場に向かうかのような緊張感に包まれていた。
「――なにを、そんなに怖い顔してるんですか?」
思わず、私は訊いていた。どうにも落ち着かない気分だったからだ。
「……ん? ああ……すまない……たいしたことじゃないんだ」
彼は視線をこっちに向けると、気がついたかのように軽く息をついた。少し場の空気が和らいだようだ。
私は、穏やかな顔で続けた。
「緊張、してるんですか?」
「……そうだな。長いこと護衛する立場にいたから、どうにも慣れていないようだ。正直、PFに乗っていたほうが、気が楽だよ」
彼らしい言葉だ。実際そのほうが、彼としては居心地が良いのかもしれなかった。
でも、国家としてはそうあって欲しくないはずである。もちろん、私としても――。
「――気持ちはわかりますけど、これからは少しずつ慣れていってもらわないと……今までとは、立場が違うんですから……」
「ああ……わかっているさ……」
でも、私の戒めに答える彼の顔には、やはりさっきと同じような厳しさが覗いていた。
機内に警報が鳴り響いたのは、それから、わずかに数分後のことだった。
「どうした!? なにが起きた?」
インターホンに向かって叫ぶ彼の顔は、すでに戦いに赴く者のそれに変わっている。私が、最も見慣れてきた顔だ。
『敵襲です!! ヴァリム軍のPF二機が、下方から接近中……今、PF部隊が迎撃に向かいました!!』
「二機、だと……?」
スピーカーから流れてきた返答に、彼は顔色を変えた。
その手が、強く握り締められている。
どうも、反応がおかしい――まるで、焦っているような感じだ。
私の背中を悪寒が駆け抜けていく。なぜか、とても嫌な予感がした。
彼はインターホンの番号を操作すると、どこか別のところを呼び出したようだ。
『――はい。こちら後部ドック……』
「俺だ……! J-フェニックスは出せるな!?」
『……こ、これは元帥閣下! は、はい! 一応、整備はしてありますが……』
「今から行く! すぐに発進できるようにしておけ!!」
『は? い、いえ、しかし……!』
言うだけ言うと、彼は相手の言葉を聞くこともなくインターホンを切り、早々と踵を返した。
「ちょ、ちょっと! どこへ行くんですか!?」
私は慌てて叫んだ。どうやら予感は的中したようだ。
「PFで出る。フェンナは、ここにいるんだ……!」
「で、出るって……! どうしてですか!? あなたが行かなきゃならない理由なんて、ないじゃないですか!」
必死で食い下がる私を見ながら、彼は低い声でつぶやいた。
「……理由か。理由ならある……俺が、俺であるために……そして誓いを果たすために、俺は行かなくてはならないんだ……!」
「誓い……? それって、なんなんですか!?」
それは、前にも聞いた言葉だった。
私には、その言葉の意味がまったくわからない。
自分でも涙が頬を伝うのがわかる。グレンリーダーは、少し辛そうな顔を見せた。
「すまない。今は語っている暇がない……でも、心配するな。俺は必ず戻ってくる……だから、ここで待っていてくれ……」
その光景は、以前とまったく同じだった。
戦いに赴く彼を見送る私――死地に向かう彼を見守ることしかできない私。
そんな私に彼が語りかけてくる言葉は、「生きて戻る」の一言。
そして、送り出す私の言葉もまた、決まっていた――。
「……わかりました。あなたを……信じてますから……!」
駆けて行く足音。
遠ざかっていく、愛しき人。
不安に押しつぶされそうになる心を支えるのは、たったひとつの信頼だけ――。
彼を信じ続けるという、私の誓い――それだけだった。
それから、戦いがどうなったのか――彼がどうなったのかを知る術はなかった。窓にはシャッターが下り、私は一人、広い個室に取り残された形となった。
聞こえてくるのは、輸送機の低い唸りだけ。
外界との情報が完全に遮断された空間――まるで、こぎれいな牢獄の中にいるようだ。
私は、やはりなにもすることができない女だと、改めて思い知らされる。
アイリのように一緒に戦場を駆けることもできず、オペレーターとして動くことも許されない。ただ、彼が無事に戻ってくることを祈り続けるだけだ。
それはある意味で確かに辛いことかもしれないけれど、所詮はなにもできずに震えている人間と大差のないことなのだ。
――ズゥ……ン。
強烈な震動が輸送機を揺らしたのは、そんなことを思っていた時だった。
足元が大きく傾き、私はソファに身体を預けるように倒れ込む。同時に緊急警報が鳴り響いた。
輸送機が、あきらかに降下しているのがわかる。
いや、落下しているというべきだろうか。どうやら、なんらかの攻撃を受けたみたいだ。
「フェンナ様! 御無事ですか!?」
ドアのロックが解除され、護衛部隊の人たちが入ってきた。その顔には、かなり焦りの色が浮かんでいる。
「一体、なにがあったのですか?」
「――敵の攻撃で、左舷のメインエンジンが大破しました……この機は、徐々に降下を始めています。速やかに我々と脱出してください!」
「閣下は? どうなりました?」
揺れる足場に立ち上がりながら、私は訊いた。
この輸送機がどうなるかよりも、そっちのほうが気がかりでならなかった。
護衛の隊長らしき人が答える。
「元帥閣下は、いまだ健在です……御安心ください。それよりも、早く脱出を!」
気休めを言えるほど余裕のある状況じゃないことから考えると、彼の言葉は真実だろう。私は、なんとも複雑な心境だった。
機体のコントロールに精一杯なのか、揺れはひどいものだ。
それでもなんとか通路へと出ると、私たちは壁を伝うような格好で歩き始めた。
機内は、喧騒と混乱とに包まれていた。VIPルームの静寂とは比べものにならない。生死の境にいる者たちの緊張と焦燥が、肌を通して伝わってくるようだ。
私は、全身が強張るのを感じた。
私自身、戦場に出るということが少ない人間だった。オペレーターという人種は、ある意味で危険から守られている存在でもあったし、前将軍の娘ということで周囲に気を遣われているということもあっただろう。
つまり、私は死の意味についてはよくわかっていたけれど、自分の命の危険というものに対しては、それほど敏感な人間ではなかったのだ。
だから今、死の恐怖が実感として、私の身体を責め苛んでいるのである。
そして、今更ながら知った。
私は、やはり彼のことを、ほとんどわかっていない人間だったのだと――。
こんな恐怖も知らないで、偉そうに彼に意見をしていた自分が恥ずかしかった。
通路を進むうち、空気を伝って重く低い音が響いてきた。
わずかに遅れて、喧騒が激しくなる。銃声らしきものが、彼方に響いていた。
「――なにが起こった?」
護衛の兵士たちが、色めき立った。私の目から見ても、なにか状況の変化があったことは、確実に理解できた。
「――うわあああああぁぁっっ!!」
やや遅れて、兵士の絶叫が響いてきた。
それを聞いて、周りの人たちが、一斉に銃を取り出して警戒した。
すべてを飲み込む津波のように、黒いなにかが迫ってくる。
底知れない恐怖。全身を突き抜ける悪寒、そして、果てのない嫌な予感――。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
近づく軍靴の音――そして現れたのは、黒い特殊スーツに身を包んだ数名の人間たちだった。
銃声が、通路を満たしていた。
閃光が瞳を焼き、火薬の臭いが鼻を突いた。
「貴様らああぁぁっっ!!!」
周囲で銃を撃ちまくる護衛の人たちに対し、しかし、黒スーツの兵士たちは撃ち返してこなかった。
ヘルメットの下に浮かぶ表情は窺い知れなかったが、彼らはあきらかに動揺もしてなければ、ためらいもしなかった。
吹き荒れる銃火を恐れずにせまり、銀色の輝きに満ちた刃を振りかざす。
「ぐわああああああああぁぁ……!!」
絶叫が耳元で響き渡り、鮮血が視界を満たしていった――。
目の前で、護衛の人たちが力尽きていく。
少なからず見知った顔の人たちが、命を無残に散らしていく。
私は、ただその場に崩れ落ち、呆然とするしかなかった。
なにもできない。
なにも考えることができない。
所詮、私は兵士ではない。ただの無力な市民と変わりがないのだということを、改めて突きつけられた気持ちだった。
「――神佐、ターゲットを確保しました」
凍りついた私の耳に届いたのは、血の海の中にたたずむ黒スーツの男の声だった。
その声は淡々としており、一切の感情を感じさせなかった。
そして、わずかに響いた通信機の向こうの女の声も、氷のように冷たいものだ。
『……御苦労だったわね。では、予定通り、ターゲットを連れて離脱なさい……こっちのほうも、どうやら限界みたいだから。あと一分も持たないかもしれないわね……』
「了解。一分あれば問題はありません……しかし、意外に役立たずでしたな。あの小娘共も……」
『……片割れが、ギガ・バスターに巻き込まれてしまったのが誤算だったわね……でもまぁ、作戦に支障があるわけではないから、問題ないわ』
「ハッ……噂に名高い双子の悪魔も、哀れなものだ……」
『――所詮、あれらも使い捨てのコマよ……フフ……とにかく、急ぎなさい……』
まるで、人間のものではないかのような会話を聞きながら、私は赤い流れに彩られる鉄の床を見つめていた。
「――さぁ、御同行願いましょうか……フェンナ・クラウゼン様……」
額に当てられた冷たい鉄の塊が、今の私の立場を表していた。
守ってくれる者もいない。自分を守る力もない。
そう。私はただの虜囚に、過ぎなかった――。
Personal Chapter (2) Fenna Klauzen SIDE ―― END
Continue to Next Chapter ―― Mai Kisaragi ――
○ あとがき
皆様、こん○○わ。双首蒼竜です。
「EPHEMERAL EMOTION」第2章――フェンナ・クラウゼンの章をお送りします。
過去に苦戦したこの章ですが、改めて見てもやりにくさが感じられます。
ただ、文の完成度は上がっているので、ほとんど修正を必要としなかったのが救いですかね。
ただの手抜きと言ってしまえば、それまでですけど……。
それでは、次は第3章でお会いしましょう。
双首蒼竜
管理人より
双首蒼竜さんよりチャプター2をご投稿頂きました!
フェンナの扱い方は難しいですからね。ただそれ故に、上手く扱えば良さが出てくるのも事実。
今回は目撃者として、なかなか上手く扱えていたと思います。
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